Our History

嶋田製甲は現在の代表、嶋田雄平の祖母の代にはじまりました。小さな工場ですが、三代に渡って仕事を絶やすことなく、丁寧な仕事を続けてきました。

 和歌山県日高郡みなべ町、昭和4年(1929年)に生まれた祖父と、昭和9年に生まれた祖母。二人はそれぞれ太平洋戦争を生き抜き、昭和27年に夫婦となりました。しかし、その時代の田舎には仕事がなく、昭和31年、二人は大阪に出ます。西成区で製甲業を営む叔母の下で下手間から始めた祖母は昭和37年、1人で女製甲師として独立。造船所で働いていた祖父も1人苦労する祖母を見兼ね、昭和40年頃からは夫婦で力を合わせて製甲業を営むようになりました。

 昭和54年、二人は大阪で身につけた製甲業を和歌山に持ち帰り、地元であるみなべ町で小さな工場を始めました。当時、田舎では遅い時間まで仕事をしていると白い目で見られたそう。仕事を探すことにも苦労しながら、しかし二人はなんとか製甲業を続け、生計を立てました。二人の子供である私の父(二代目)も成人し、母と結婚。二人もまた家業である製甲業を継ぎました。昭和後期には、好景気の波に乗り、売上高も好調で、10名程従業員を雇用していた時期もありました。

 私が本格的に製甲業に加わるようになったのは2010年頃のこと。しかし、徐々に不景気の波に飲まれ、ついに従業員を全員解雇せざるを得ない状況に陥りました。2019年からは私と両親の三人でなんとか家業を守っているような状況でした。そこに追い討ちをかけたのがコロナ禍です。仕事は激減し、私自身もこの仕事を続けられるか、悩む日々を送りました。外に出て営業活動も出来ない中で、藁にもすがる思いで始めたのがSNS。コロナの流行以前からやった方がいいのだろうとは思いながら、日々の作業に追われて後回しにしていたことでもありました。

 日々の作業を細々と投稿していただけのアカウントのフォロワーはどう言うわけか日々増え続けました。Instagramを通して色々な方と出会い、仕事の依頼や紹介も少しづつ増えていきました。受け身ではなく、自ら発信することの大切さを実感した瞬間でした。祖母の代から約70年続けてきたファクトリーとして、私たちにできる事はまだあると信じています。今後もお客様との関係を大切に、着実に歩んでいきたいと考えています。

Our Mission

嶋田製甲のミッションは、クライアントであるブランド様と信頼関係を築き、クオリティの高い仕事を適正工賃で請け負うことで、ものづくりの技術を紡いでいくことです。

グローバル化が進むにつれて「靴づくりの現場」は日本からどんどん消えてなくなっています。

技術や伝統というものは、意識的に守ろうとしなければ消えていってしまうもの。短期的な視点で「いかに効率よくお金を稼ぐか」という事だけを追い求めていたら、ものづくりや伝統は簡単になくなってしまいます。「1円でも安くしてくれ、1日でも早く仕上げてくれ」という圧力はものづくりの現場を疲弊させ、結果的に自分たち(ブランド)の首を絞めることにもなります。無理な要望で現場を振り回していると、技術の向上や丁寧な作業といった余白が失われ、製品の質も落ちていきます。さらに圧力をかけ続ければ、ものづくりの現場はついに限界を迎え、はじけて消えてしまいます。

その時になって、やっとことの重大さに気が付いても、もう手遅れかもしれません。『これを機に考えを改め、他の業者を探して、今度はもっとフェアな付き合いをしよう』と考えたとしても、日本にはもう「他の業者」が存在しないかもしれません。油が切れて錆びついたミシンは動かなくなる。伝承が途絶えた技術も、簡単には取り戻すことはできません。

いま、日本各地の、色々なものづくりの現場で、同じようなことが起きています。そして、一般の生活者はそんなことが起きていることを知る由もありません。理由さえ分からぬまま、しかし日本人の生活の質は落ちていきます。外国の生産力に頼ってその場凌ぎをしても、インフレや為替リスクといった大きな世界の流れに襲われれば、ブランドにも、生活者にも、それに立ち向かう術はありません。

少なくなっているとはいえ、日本には素晴らしい技術を持った工場がまだあります。技術力、志、熱意を持った職人もいます。よいものづくりには、関わる人が互いに人間関係を深めていく時間が必要です。ブランド側と、ものをつくる側がお互いを理解し、フェアな関係の中で双方の持つ知恵、感性、技術を集結しつくったものの価値は、必ず生活者にも伝わるはずです。